『ザ・監督。そして、あの夏』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

松山商業の窪田監督。宇和島東の上甲監督。
西条の森田監督。新田、帝京時代の一色監督。

…僕の高校野球中継時代は“先生監督”でなく、“職業監督”達との仕事でしたから思い出が半端ではありません。

ピッチャーズプレートから本塁までの距離。各塁間の距離。
そこから割り出す盗塁成功に許された時間。
…そんな事から教わり、話し合いました。

プロに行った華々しい球児も時代、時代にいましたが、
やはり高校野球の魅力は“ザ・監督”でした。

堀之内の松山球場時代は1回戦からラジオはNHKとバックネットに並んで全試合を中継していました。
宇和島、今治、新居浜の旅館暮らしもしました。

この時期になると、発声練習からやり直す先輩。長時間中継の体力をつけるためにランニングをする先輩…。

高校野球中継はアナウンサーの優劣を決める期末試験みたいなものでもありました。
年齢やキャリアは関係なく、その仕事ぶり・巧さで序列ができていました。
自他共に許すアナの序列です。
序列が下になった先輩ほど哀しいものはありませんでした。
だから…若手にとっては下剋上の、逆転のチャンスでもありました。

それだけ放送が命がけでしたから、愛媛野球も強かったです。
生意気なキャッチコピーですが『放送がチームを強くする!』がウチのアナウンス室の共通意識でした。

ウチの江刺アナや藤田アナはその伝統を受け継いだ最後のスポーツアナです。
だから、マラソンをやってもなにをやっても心が入っているんです。

江刺・藤田

今年の朝日新聞の高校野球のテレビCMいいですね。どっかの応援団がスタンドでやりそうです。